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日本から安重根義士遺骨関連の新資料入手 国家報勲処長「日本外務省にはまだある」

日本から安重根義士遺骨関連の新資料入手 国家報勲処長「日本外務省にはまだある」

Posted March. 23, 2010 02:58,   

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「ハルビンでの殺人事件で入監した韓国人9人は厳正に隔離する必要があり、全員独居拘禁した結果、拘禁監が多少狭く、別の監房は定員以上を拘禁せざるを得なくなった。被告事件の重大さに伴い、戒護者の選定および事件の性質上、監獄内外を厳重に警戒する必要がある」(1909年10〜12月情況報告)

「拘禁中の殺人被告人・安重根(アン・ジュングン)他数名は、被告事件の重大さに伴い、諸般の関係上、厳重な取り締まりが必要だった。特に2月7日から14日の期間は、連日裁判所に出廷するため、危険に備え、護送馬車を用意し、沿道の往復を警戒し、法廷内で警護上の取り締まりも実に苦心した」(1910年1〜3月情況報告)

安重根義士が伊藤博文を射殺し、旅順の監獄に収監されている間、日本が監獄の警戒を大幅に強化したという内容が含まれた日本の文書が発見された。日本が、安重根義士の収監後、警戒を強化したのは、韓国同胞による遺骨の奪取を防ぐ意図があり、遺骨の祖国埋葬で安重根義士の墓地が聖地化され、抗日運動の本領としての役割を果たすことを憂慮したとみられる。

国家報勲処は22日、関東都督府(日本植民行政機関)の安重根義士の死刑執行報告書と情況報告・雑報(1〜15冊)、証拠品目録などを確保したと明らかにした。これらの資料は、日本外務省の外交史料館に保管されていたのを、報勲処が日本の資料公開法などを利用し、先月見つけ出し、複写本を国内に持ち込んだ。

安重根義士に対する死刑執行命令記録原本は、日本が1910年2月14日、安重根義士に対し死刑を宣告し、3月24日に死刑執行を命じた内容だ。安重根義士の死刑は、命令2日後に執行された。この命令の記録には、安重根義士の住所が「韓国平安道鎮南浦(ピョンアンド・ジンナムポ)」と記載されている。職業(無職)と名前(安応七)、年齢(33才)、罪名(殺人犯)、刑名(死刑)の判決言い渡し日(1910年2月14日)なども明示されている。応七(ウンチル)は、安重根義士の幼名だ。

安重根義士の証拠品目録には、当時ロシアで発刊された漢字新聞「遠東報」1部と伊藤博文暗殺を暗示する「東清鉄道列車発着時刻表」、そして、手提げかばんなどが記されている。死刑直後、安重根義士の弟らが遺骨の返却を要求したが、断る内容が書かれた「2人の弟の遺体引き渡し要求に対する処理経緯報告」の原文も確保された。

安重根義士の弟の安ジョングン氏が、安重根義士の写真で5種類のはがきを作り、米ハワイに300枚、サンフランシスコに500枚送ったという記録も、安重根義士の写真とともに発見された。大日本監獄協会が1910年1月20日に発行した「大日本監獄協会雑誌」には、安重根義士に対し、「普通の刑事被告人だが、国事犯と同格に扱われている」と記録されている。

さらに、1920年代初期、日本関東庁警務局が作成した文書(関東都督府情況報告・雑報)には、安重根義士と金九(キム・グ)先生を始めとする主要独立活動家228人の記録が含まれている。このうち89人は、今回初めて確認された人物だ。

1922年3月23日に作成された「上海臨政北満不逞鮮人団連絡」では、上海臨時政府警務局長だった金九先生が満州とシベリアに連絡し、日本官吏を偵察し、親日朝鮮人暗殺を指令したという内容が含まれている。

国家報勲処の金揚(キム・ヤン)長官は、「安重根義士の遺骨をどこに埋葬したのか、関連資料も手に入れられずにいるが、私たちが目にしていない安重根義士関連の写真や資料が、日本外務省の史料館にあると確信する」とし、日本側の誠意ある姿勢を求めた。



pen@donga.com