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韓国人労働者の集結地だった大阪、1920年代の労働・抗日運動の拠点に

韓国人労働者の集結地だった大阪、1920年代の労働・抗日運動の拠点に

Posted February. 09, 2019 08:47,   

Updated February. 09, 2019 08:47

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事実上、廉想渉(ヨム・サンソプ)単独示威で推進された1919年の大阪3・19宣言は、亡国の思いを抱いて生きた大阪の韓国人労働者たちに民族意識を吹き込んだ。差別に苦しみ、生計のために黙々と働いた労働者たちは、廉想渉の逮捕を機に、東京の留学生たちの2・8独立宣言に続く本国での3・1万歳運動を知ることになった。労働者が力を合わせて声を出さなければならないという意識も次第に生まれた。このような覚醒は、1920年代、大阪で起こった労働運動と抗日運動につながった。

東京が韓国人留学生の中心地だったなら、大阪は韓国人労働者の集結地だった。1925年当時、大阪の韓国人労働者は3万4311人で、日本全体の韓国人労働者(13万6709人)の25.1%を占めた。(『朝鮮人現況』)

労働環境は非常に劣悪だった。韓国人労働者は、植民地民族に対する差別などが作用し、日本人よりも賃金が少なかった。1930年代、韓国人労働者の賃金は1日平均1円22銭で、日本人労働者(2円5銭の半分の水準だった。1915年に造船所の見習工として働き、日給85銭を受け取ったキム・テヨプは、当時の処遇をこのように記録した。

「合宿所の生活は惨めだった。安南米のご飯に腐ったたくあん数枚、そして塩汁が変わることのない私たちの食事だった。それでも一日の食事代は50銭だった。斡旋業者に負った借金を毎月返済しなければならず、衣服費、散髪代、風呂代、薬代などを計算すると、借金が減るどころかますます増える」(キム・テヨプ『抗日朝鮮人の証言』)

1919年に入って、日本国内の韓国人労働者の労働争議も急激に増加した。廉想渉示威3ヵ月後、福島炭鉱で起きた韓国人鉱夫の争議は、3・1運動の影響を受けたと評価されている。

廉想渉の示威地である天王寺公園は、その後、4大記念日闘争(3・1運動記念日、国恥日、関東大震災朝鮮人虐殺日、労働節)だけでなく、朝鮮総督暴圧政治反対闘争などが行われ、大阪地域の韓国人の抗日集会の拠点となった。特に、1927年6月1日に天王寺公園で行われた総督暴圧政治糾弾大会(約4千人参加)は、東京など他の地域に抗日闘争が広がる導火線の役割をした。


成東基 esprit@donga.com