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パリのハングル英雄たち

Posted October. 13, 2017 09:23,   

Updated October. 13, 2017 10:04

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ハングルの日だった9日午後2時、フランスのパリ郊外に設けられた教室の1階に「祝・パリハングルの家の開院式」と書かれたプラカードがかけられた。1974年にパリのハングル学校がオープンしてから43年ぶりに初めて、人の機嫌を窺わず存分に使うことのできる教室が4つできた日である。

パリ・ハングル学校の校舎買い取り推進委員会のイ・チョルジョン名誉会長(85)は、1999年に委員会を設立し、募金に着手した。38万ユーロ(約5億ウォン)を集めて、最初の教室を持つまで18年がかかった。イ会長の表現どおりなら、韓国人1400人余りの真心が込められた血の涙のような金である。ハングル学校の児童生徒たちは、ハングルの弁論大会や作文大会で受け取った賞金を寄付に出した。

開院式の時に来賓席に座らないと主張していたイ会長は、いざ、司会者の勧めで舞台に立つと、声が震えた。

「これまでフランスで一番高いと言われているモンブランのシャモニーも行ったし、南部の高い山にも上りました。ところが高いところから見下ろすと、この広い土地に私たちの2世たちにハングルを教えるところがないという気がして、全く喜びがありませんでした。今勉強できるスペースができました。感無量です」

イ会長は、小学校3年生だった1943年を忘れられない。2学期が始まると、日本人教師が学校で韓国語を使わせなかった。韓国語を使おうとしたが、その罰として両手を上げて立たされたり、ひざまずかされたりした日が続いた。韓国で韓国語を使えなかったあの時代の記憶は、恨みとして残った。

彼の最終学歴は小学校卒業である。光復(日本植民地からの独立)直後、父が急死し、4兄弟を世話するために、これ以上学校に通うことができなかった。シェフの資格を取った後、1976年にパリに渡り、韓国料理店のシェフとして働いた末、韓国料理店のオーナーになった。

ハングル学校の児童生徒の60%は、フランス人と韓国人の夫婦の間で生まれた多文化子供だ。彼らはハングル学校が存在しなければ、フランスでハングルに接する機会がない。開校から43年間、数多いハングルの英雄たちは、同胞の2世たちにハングルを伝播するという一念で生徒を教え、寄付を集め、雑務も厭わなかった。

李会長と一緒に募金の先頭に立ったチェ・ユンギュ・ハングル学校財団理事長は、背の低い古い椅子を指しながら、「お金がなくて、フランスの学校からもらってきた椅子である。恥ずかしい現実だが、そんな椅子を置ける私たち場所ができただけでもとても感激している」といきなり涙を流した。

これまで、ハングル学校は水曜日は午前授業だけを行うフランスの学校を説得して、水曜日の午後に教室を借りて運営してきた。「間借り」の立場はいつも悲しい。引っ越しの回数だけでも10回を超える。学校の備品が壊れると、そのすべてがハングル学校の児童生徒の仕業だと責め立てるフランス学校のために、保険まで入らなければならなかった

そんな彼らの努力は徐々に光を放っている。小学校1年生から高校3年生までの12の学年、児童生徒数は250人に増えた。昨年からは韓国語がフランス大学入試であるバカロレア試験で、第2外国語の選択必修科目に指定され、韓国語を学ぼうとするフランスの生徒たちも増えている。韓国政府は、自分たちの政治的治績でもあるかのように広報しているが、自分が通うフランスの学校に「韓国語の授業」を増やしてほしいと継続的に要求してきたのは、ハングル学校の児童生徒であり、彼らを教えるのはハングル学校の教師出身たちである。

同日、国の代わりに、ハングル伝播の先頭に立つ彼らの開院式に、教育院長一人のほか、いかなる高位公務員たちも姿を見せなかった。ハングル学校の財団が大使館に招待状を送ったが、ハングルの日が祝日であるので行けないと言われたそうだ。祝日に指定したときに誰もが予想できなかった副作用であった。そういえば、募金に参加した1400人のうち、政治家や公務員は長官ただ一人だったという。