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日本に代わって存在感マス台湾の青春映画

日本に代わって存在感マス台湾の青春映画

Posted May. 17, 2017 10:15,   

Updated May. 17, 2017 10:16

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1990年代に学生時代を過ごした人なら「お元気ですか」で代表される岩井俊二監督の「ラブレター(Love Letter)」(1995年)を浮かべることだろう。少年少女のたわいない初恋を描いた映画は、当時115万の観客を動員した。ラブレターだけでなく「4月物語」(1998年)、「鉄道員」(1999年)などは初々しい純粋な感性を描いた代表的なロマンスだった。いずれも日本監督の作品だった。

このように日本が主導したロマンス映画市場に台湾産の青春映画が根を下ろし始めた。化粧気のないすっぴんの制服姿の男女、青色に包まれた風景の中の自転車、繊細な手ぶりや表情…。「永遠なる夏(原題:盛夏光年、日本公開名:花蓮の夏)」(2006年)、「言えない秘密(原題:不能説的・秘密)」(2007年)、「聴説」(2009年)、「あの頃、俺たちが好きだった少女(日本公開名:あの頃、君を追いかけた)」(2011年)、「私の少女時代」(2015年)、そして11日に公開された「カフェ、一人を待つ(英語タイトル:Cafe. Waiting. Love)」まで。台湾から渡って来た青春映画が韓国観客を虜にした。第1世代の青春映画と言える「永遠なる夏」は4507人の観客動員に終わったが、周杰倫監督が演出・出演して話題を呼んだ「言えない秘密」は9万人以上の観客が入った。2016年に公開された「私の症状時代」は40万9689人の観客動員を記録した。

台湾で青春映画が本格的に作られ始めたのは2000年代からだ。1970年代以降、急激な経済成長を遂げた台湾政府は自国のコンテンツ開発に力を入れるようになった。検閲も緩和された。「光陰的故事」(1982年)や「サンドイッチマン」(1983年)に触発された台湾のニューウェーブをけん引したエドワード・ヤン、侯孝賢のような監督の活躍が目立ち、台湾の社会と歴史、政治を反すうする傑作が多数誕生した。しかし、これらの映画は商業性に欠け、2000年代以降はハリウッド映画が市場を食い荒らした。自国の映画製作環境が委縮すると、小規模資本で小規模に短期間でリスクを抑えて製作できる青春映画が、この頃から作られ始めた。

映画評論家のチョン・ジウク氏は、「台湾の青春映画は作為的で幼稚な設定が多分にあるが、青春を題材しているので徹底的に思い出を売り込んでいる」とし、「台湾特有のきれいな天気と風景も青春映画が人気を集める秘訣の一つ」と話した。



李知訓 easyhoon@donga.com