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旧韓末の米国人が撮影した慶熙宮會祥殿の最後の姿

旧韓末の米国人が撮影した慶熙宮會祥殿の最後の姿

Posted February. 15, 2017 08:23,   

Updated February. 15, 2017 08:25

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八角形の屋根に、正面が7間、側面が3間の大型殿閣の周辺に、雑草が生い茂っている。1661年に粛宗(スクジョン)が生まれ、一時は王と王妃の寝所だったところだが、ほぼ膝まで育った雑草に囲まれている。この殿閣とつながった行閣の柱には、蔓が遡って屋根まで続いている。朝鮮末期王室の衰退を象徴的に示すシーンのようだ。殿閣の中では、宮廷女官に見える二人が、こちらを注意深く見ている。突然カメラを突きつけた欧米人をひどく警戒したのだろう。

国立民俗博物館が最近発刊したプリシラ・ウェルボーンエビ夫人(80)の寄贈資料集には、大韓帝国時代の「慶熙宮(キョンヒグン)會祥殿」を撮影した貴重な写真が掲載されている。1930年代に火災で焼失した會祥殿の旧韓末の写真は、これ一つしか残っていない。日本帝国は、日韓強制併合直後だった1911年、慶熙宮に京城(キョンソン)中学校を設立して、會祥殿を臨時小学校の教員寮として使った。會祥殿は、1930年代に日本の寺院のオフィスに転用されるなどした。高宗(コジョン)が景福宮(キョンボククン)と慶運宮(キョンウングン)に、主に起居することにより、慶熙宮は割合放置された。1865〜68年に景福宮を再建する際、部材確保のため、慶熙宮の一部の殿閣を解体した。民俗博物館の関係者は、「写真の中の會祥殿の周辺が適切に管理されていないのは、このような理由からと見られる」と話した。

この写真は、寄贈者であるエビ夫人の祖母であり、旧韓末に宣教師として活動したサディ・ウェルボーン氏が生前に所有していた。故人は、同様に韓国に宣教師として派遣されたアーサー・ウェルボーンと結婚し、後に米軍政庁通訳として勤務することになるヘンリー・ウェルボーンを生む。民俗博物館は、エビ夫人から、大韓帝国時期の写真とヘンリー・ウェルボーンが収集した資料など計648点の寄贈を受けた。韓半島と深いかかわりを持つ米国人3代が眺めた旧韓末と独立直後の状況が、生々しく盛られた歴史的資料といえる。

このうち、1946年7月、慶尚南道(キョンサンナムド)米軍政庁情報課長及び公報部長に任命されたヘンリー・ウェルボーンの資料が目を引く。当時、彼の主な業務は、韓国人の世論を収集し、米軍政の政策をPRすることだった。例えば、彼が作成した「韓国人のための韓国の米」というタイトルの記事では、「韓国で収穫した米は、もっぱら韓国人の食卓に上がる」ことを約束している。国内で生産された米は軍政が海外に搬出しておらず、米を闇市で違法に流通させないでほしいと訴える内容だ。米軍政の食料政策を巡る不満に触発された「10月抗争」後、民心を急いで収拾しようとする狙いが読み取れる。

博物館は資料集の中で、「当時、深刻なインフレのため、米穀買取価格が闇市での価格にはるかに及ばなかった」とし、「一方的に農民たちの愛国心に訴えることは、大きな効果を上げなかっただろう」と説明した。



金相雲 sukim@donga.com