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統一新羅時代の青銅淨甁、1000年ぶりに日の目を見る

統一新羅時代の青銅淨甁、1000年ぶりに日の目を見る

Posted June. 03, 2016 07:43,   

Updated June. 03, 2016 07:52

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江原三陟市(カンウォン・サムチョクシ)にある道溪(トゲ)炭鉱から、車輪が空回りするほどの急こう配を5分ほど登っていけば、野花が咲き乱れている山道が現れる。ここからしばらく歩いて行けば717メートルの高台の下に、「深い森の中に、これほど広々として平地があるのか」という言葉がおのずと出てくるところが現れる。2014年から発掘調査を行っている興田里(フンジョンリ)寺址だ。

「ここに、何か不思議なものがある!」

先月18日、第1号建物址のオンドルの跡で、手ぐわで土を取り払う作業をやっていた作業員が、現場にいた仏教文化財研究所のバク・スンヒョン研究士を呼んだ。急いで駆けつけたバク研究士の目に、オンドルの石の中にある青銅素材の物2つが入ってきた。土の中に埋もれていたが、ワイングラスのような屈曲がある。

約1000年ぶりに日の目を見た青銅淨甁だ。淨甁は、慎重に土を払うと、長い年月にも全く傷つかずに、完全な姿を現した。

淨甁とは、和尚たちが浄水を入れて釈迦牟尼に備える供養道具だ。今回出土された淨甁は、国内にわずか3点しかない統一新羅時代のものと推定される。しかし、慶尚北道軍威(キョンサンブクド・グンイ)にある麟角寺(インガクサ)で出土された2点は、その一部が毀損されており、忠清南道扶餘(チュンチョンナムド・ブヨ)にある扶蘇山(ブソサン)から出土されたものは、日本植民地時代の工事中に発見されたので、その価値が明確でない。

興田里淨甁は中国にはなく、高麗時代にも消えた様式である8角のチョムデ(水を注入するつまみ)を持っている。チョムデの長さは、8世紀後半に作られた麟角寺淨甁より短く、胴体の高さは約35センチで、高麗淨甁より小さい。文様はなく、淨甁胴体の肩の上に、飾りとして線が陰刻されている。

2日、現場での説明会で、東国(トングク)大学大学院美術史学科の崔應天(チェ・ウンチョン)教授(文化財員)は、「今回見つかった淨甁は、9世紀に作られたものとみられ、麟角寺淨甁以降11世紀の高麗淨甁までの約200年間の空白を埋める連結の輪だ」といい、「その形は、国宝92号である『青銅銀入絲蒲柳水禽文淨甁』より、さらに美しく感じられる」と語った。

崔教授は、唐時代に制作されたと言われている日本奈良博物館が所蔵している淨甁も、今回出土された淨甁と形が極めて似ており、統一新羅時代に作った淨甁であることは確実だとみている。 興田里 淨甁は、文化財庁国立文化財研究所での保存処理や精密分析を経て、文化財指定が進められる予定だ。

興田里寺址では金堂(クムダン)址塔址などの主要伽藍施設が確認され、特に、新羅時代に王が任命する僧団の最高統率者である「国統」が刻まれた碑石破片や、繊細かつ華やかな金銅幡(旗)が出土されたことから、当代の主要寺院があったものとみられる。朝鮮時代前期の建物址も確認されたが、寺院ではなかったものとみられており、高麗時代の遺物もほとんどなく、高麗初期に廃寺後、埋もれたものとみられる。元々の寺院名は確認されていない。

興田里にあった寺院は、慶州(キョンジュ)から月岳(ウォルアク)山・チンジョン寺や江原襄陽(カンウォン・ヤンヤン)の禪林院(ソンリムウォン)などの禪宗寺院へと続く架け橋という評価を受けている。仏教文化財研究所のバク・チャンムン・チーム長は、「ここは、白頭(ベクドゥ)大幹が智異山(チリサン)に分かれる一方、漢江(ハンガン)や洛東江(ナクドンガン)、東海(トンへ)の水系が分かれる要衝の地だ」と主張し、「寺院は交通路を守り、旅人たちの宿舎の役割を果たしただろう」と話した。

今回の発掘調査は、文化財庁や仏教文化財研究所が2013年から行っている「廃寺址総合学術調査」の一環として行われた。仏教文化財研究所のイム・ソッキュ室長は、「全国のかつての寺院の跡5400ヵ所余りは、上辺では何もなかったかのように見えるが、地下に様々な文化財が埋もれている宝庫だ」と言い、「一部では土台が崩れたり、遺物が毀損されたり、盗まれることが起きて、総合的調査が急がれる」と語った。



삼척=조종엽기자 三陟=チョ・ジョンヨプ記者 jjj@donga.com