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戦争の痛みと貪欲の傷、我々の傷はまだ痛む

戦争の痛みと貪欲の傷、我々の傷はまだ痛む

Posted January. 24, 2019 08:13,   

Updated January. 24, 2019 08:13

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「砂漠のオアシスというか、民主のユートピアというか。深くて遠い北満州の烏雲は、私たちが想像すらできなかった理想的同胞集落が建設され、現在65戸390人の同胞がまさしく甘い夢に浸って美しい将来を覗いているという。…迷っている内外地の貧しい同胞は、みんなで来て生きることを願っているという」

日本植民地時代に東亜(トンア)日報が、「同胞の手を待っている無制限の適農地(農業に適した土地)」と紹介しながら移住を奨励していた北満州の独立運動基地「倍達(ペダル)村」の正確な位置と現在の姿が初めて明らかになった。村ができてから100年ぶりのことだ。

独立記念館・独立記念館独立運動史研究所は、学術調査団としては光復(日本植民地からの独立)後、初めて昨年9月、倍達村の現地を訪問して調査を行ったと、23日明らかにした。現地調査を行ったパク・ミニョン独立運動研究所首席研究委員は、「倍達村は、李相卨(イ・サンソル、1870~1917)と曺成煥(チョ・ソンファン、1875~1948)などが独立運動を繰り広げるために造成した韓人村だ」とし、「ハルビンでも東北方に700キロも離れた中ロ国境黒龍江の奥地にあるので、その重要性に比べてあまりスポットライトが当てられなかった代表的独立運動の根拠地だ」と説明した。

パク研究委員によると、倍達村は北間島の龍井と西間島の三源浦、北満州の密山などと肩を並べる独立運動基地だった。満州、沿海州の韓国人村の中で最も北にあった村でもあった。現在の行政区域では、中国黒竜江省伊春市嘉蔭県呉烏云鎭一帯にあった。

倍達村は最初の建設以来、2度も村を移さなければならなかった。当時、東亜日報の記事によると、同胞100戸が1916年3月頃、烏拉幹に移住して荒れ地を田んぼに耕し、学校を建て始めた。1920年、独立軍総裁代理・金爀(キム・ヒョク)が1921年、臨時政府首相の申圭植(シン・ギュシク)宛に送った手紙では「韓人農戶は二百あまりだが、士官学校を設立して卒業した士官が200人あまりだ」とした。

何よりも、ここは沿海州で活動した独立軍団・血誠団(ヒョルソンダン)の根拠地だった。血誠団団長の金國礎(キム・グクチョ)は1920年11月28日、所在地を「烏雲県倍達屯」と明記した。残念ながら、この当時の村の現在の場所は今回の調査でも確認されなかった。

倍達村は、1921年1月、馬賊群れから襲撃を受けた後、烏雲県に移して再び建設された。「倍達村」と命名されたのはこの頃。1922年、倍達村に1年近く滞在していた李雨錫(イ・ウソク)は、「馬賊は200人で、うちの学生は30人なのに、馬賊と10日間戦った」とまた聞きの話を記録した。パク研究委員は、「その場所は、現在の烏云鎭の下の舊城村から西側1キロの郊外」とし、「今は中国人の墓地があるだけで、韓国人が住んでいた痕跡はひどいほど何も残っていない」と現地の風景を伝えた。

倍達村は1928年の夏、黒龍江が氾濫した大洪水で家屋や田畑を失った後、再び「烏云駅東南側」(現在の烏云鎭東南側の市街地郊外)に移した。東亜日報は、「さらに1931年9月18日の事変は、彼らを再び死の中で迷わせた」と、日本帝国が起こした満州事変が同胞たちを危険に陥れたと伝えた。1933年、東亜日報が紹介した倍達村は、まさにここである。夫の実家が倍達村にあった在中同胞のユ・オクジャ氏(77)は、研究所の調査で、「元々80戸に及ぶ韓国人の村だったが、光復後、徐々に散らばって、1970年代には皆が去り、中国人が入って住んだ」と伝えた。

パク研究委員は、「臨時政府の新聞である独立新聞は、配達村の韓国人学校建設のニュースを伝えるなどした」とし、「倍達村で生まれた実業会、農民会なども独立運動の方便だった」と説明した。


趙鍾燁 jjj@donga.com