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「安重根の師匠は李相卨」秘密文書が発見

「安重根の師匠は李相卨」秘密文書が発見

Posted April. 20, 2018 08:17,   

Updated April. 20, 2018 08:17

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「加害者、安応七(アン・ウンチル)(安重根義士)は3年前(1906年)、当時、排日目的の教育に従事していた李相卨(イ・サンソル)を訪ね、門下生になった。…李相卨は安応七が最も尊崇する人物だ」

伊藤博文を狙撃した安重根義士とハーグ特使として声明会宣言書を主導した李相卨先生の「思想的連帯」がうかがえる史料が発見された。日本植民地支配初期、独立志士弾圧の主犯である明石元二郎憲兵隊司令官(1864~1919)の秘密報告書が初めて世の中に公開された。

李相卨先生記念事業会(イ・ソクヒョン会長)は19日、「近代史ドキュメンタリー製作会社『ザ・チャンネル』のキム・グァンマンPDとともに日本の外務省公文書館やロシア極東文書保管所ハバロフスク図書館に眠っていた『韓国駐車軍参謀長明石元二郎報告』を発見した」と明らかにした。

この機密文書は、安義士が1909年10月26日、中国・ハルビンで伊藤博文を射殺して逮捕された後、「日帝スパイ大将」と呼ばれた明石が作成した。現代なら中将級参謀長だった彼が直接中国に渡って密偵を指揮して作った報告書だ。日帝が安義士の背後勢力を探すための下調べだった。

 

50日余りの間、当時の様々な独立志士を調査したこの報告書は、安義士と李先生の関係に集中した。特に安義士が李先生に政治的・思想的に感化を受けたことを示す内容が多く登場する。「安応七は李相卨に依託し、当時米国から帰国した安昌浩(アン・チャンホ)とも合意して間島(カンド)に行った」、「(欧州にいた)李相卨を安応七と同志たちが金を集めて沿海州に呼び入れ、・・・安応七は間島で李相卨から師事した」。

 

報告書によるよ、安義士が1906年8月に故郷を離れて間島龍井(ルンジン)に亡命したのは、李先生の門下生になるためだった。当時、李先生は間島でソジョン学校を設立して運営していた。1907年、高宗(コジョン)皇帝の命を受けてハーグ特使として行っていた李相卨を迎えるための募金運動も安義士が主導した。

 

このような事実は、これまで霧がかかっていた安義士の思想的基盤に対する興味深い解釈を提供する。

安義士は逮捕された後、日本の法廷で論理的な弁舌を披露した。獄中で「東洋平和論」と「安応七歴史」を執筆した。しかし、幼年期に四書三経と新聞、カトリック教養書を修学したこと以外に伝えられたことはなかった。キムPDは、「安義士が明らかにした『東洋平和論』の根元が当代の知性とされた李相卨先生と結びついていることを示唆する」と説明した。

報告書の最後には、「朝鮮統監府嘱警視の新聞」で安義士が李先生について言及する内容がある。「包容力が非常に大きく、世界の大勢に通じ、東洋の時局を看破している。万人が集まっても及ばない。包容力があり、事理に通じる大きな人物として大臣の器になることを失わなかった」。獄中で苛酷な試練を経験しながらも安義士は抗日闘争の思想的師匠に賛辞を捧げた。

一方、22日の李相卨101周忌には、李先生の故郷である忠清北道鎮川(チュンチョンプクト・ジンチョン)で、「溥齋(ポジェ)・李相卨記念館建築出征式」と「溥齋・李相卨語録除幕式」が行われる予定だ。記念会側は、「新たたに発見された史料で、李相卨先生の新しい面と立体的な顔を復元できることになった」と評価した。


趙允卿 yunique@donga.com