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宣銅烈氏の恩師、星野仙一氏が死去 「私を生まれ変わらせた方」

宣銅烈氏の恩師、星野仙一氏が死去 「私を生まれ変わらせた方」

Posted January. 08, 2018 08:41,   

Updated January. 08, 2018 09:32

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「バカ野郎、そんなことで野球を辞めるんだったら韓国に帰れ」

「国宝投手」と呼ばれた宣銅烈(ソン・ドンヨル)氏(55)は、日本プロ野球に進出した1996年に当時の中日ドラゴンズ監督だった星野仙一氏(現楽天副会長)から激しく怒鳴りつけられた。慣れない日本野球に適応できず、マウンドでは自信を失った姿まで見せると、星野監督は宣氏を厳しく責め立てた。宣氏は、「さんざん痛罵を浴びては、すぐ2軍に行かされた。ところが韓国とは違って2軍は洗濯もしてもらえなかった。自分で下着を洗濯しながら、心を鬼にした」と振り返った。

星野氏は歯を食いしばって磨きをかけた宣氏に、翌年もう一度チャンスを与えた。宣氏は、その後、中日の守護神として華やかに復活し、1999年には李鍾範(イ・ジョンボム)や李尚勲(イ・サンフン)ら後輩とともに中日のセントラルリーグ優勝をけん引した。

その宣氏に、星野氏の突然の訃報は、余りにも大きな衝撃だった。宣氏の恩師で、日本野球の巨木として一時代を風靡した星野氏が4日、すい臓がんで他界したことが伝えられたのだ。享年70歳。

宣氏は7日、本紙の電話取材に対し、「私が野球で生まれ変われるようにしてくれた方だ。ユニホームを着ているときは誰よりも怖かったが、プライベートでは人間味が溢れた」と思い返した。

星野氏は、熱い性格と感情むき出しの采配から「熱い男」「燃える男」などと呼ばれた。中日監督時代にボーンヘッドプレーを犯した選手に向かってグラウンドの上で拳を振りかざしたこともある。ビーンボールを投げた敵のバッテリーを殴ったこともある。星野監督の「鉄拳制裁」は「暴行ではないか」という批判も浴びたが、彼の強力なカリスマ性を象徴するものでもあった。

ユニホームを脱いだときは優しくて、懐深い人だった。宣氏は、「星野監督は後援会を通じて沢山のプレゼントをもらったが、それを惜しむことなく選手たちに配った。私も高価の時計をもらったことがある」と話した。寄付活動にも熱心で、選手たちには「人生の1%は人のために使いなさい」と言い聞かせた。

明治大学のエースだった星野氏は、日本最高の名門読売ジャイアンツに1位指名されず、中日に入団してから「アンチ巨人」の先頭に立った。選手としては通算146勝(121敗34セーブ)を挙げ、最高の投手に贈られる沢村賞も受賞した。指導者としては中日と阪神ドラゴンズ、楽天の3チームで監督を務めた。4度リーグ優勝を経験し、2013年には楽天で自身初の日本シリーズ優勝を果たした。2008年の北京五輪では日本代表監督を務めたが4位に終わった。

日本の野球関係者やファンの追悼が相次ぐ中、楽天は7日に宮城県仙台市にあるホーム球場の楽天生命パークに献花台を設置し、3日間献花を受け付ける。



李憲宰 uni@donga.com