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身軽な週末のある生活

Posted March. 11, 2017 08:52,   

Updated March. 11, 2017 08:52

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最近、政府が内需活性化のために、「プレミアムフライデー」を推進するという計画を発表しました。この案によると、「健全な余暇文化」の活性化を図り、仕事と家庭との両立のため、月1回、金曜日を「家族と一緒に過ごす日」に指定するとのことです。これにより、低迷している消費心理が回復されることを期待すると言います。

そのため、「健全な余暇文化」とはいったい何かについて振り返りたいと思います。さらに、余暇の意味について多角的に考察したいと思います。辞書では、余暇とは、「仕事がなくて余る時間」と定義しています。具体的には、「食べたり寝たりすることのように、生命維持のために必要な活動と職業上の労働や必須的家事活動のように、日常的にストレスを与える義務的事柄から自由な時間」と言います。

ある人は、余暇とは、「何もしない状態」と主張します。しかし、これは一般の人たちが日常のなかで実践するのは容易でないことでしょう。アリストテレスも、神だけが「不動の快楽」を完璧に楽しむことができると主張しました。人間は動いてこそ楽しいことが多いんです。これは、歌ったり、踊ったり、遊んだり、運動したりすることを見ても分かります。

現実において余暇とは結局、「余暇の善用」の問題のようです。いかなる負担もない完全無為の状態とまでは言えなくても、可能な限り身軽になった時、人々は自主的に余暇を良いことに使おうとするでしょう。身軽な状態にあることは、自分へのこだわりからも自由だという意味です。人間は身軽な時、自分から離れて周りを見回します。すなわち、個人の利害得失から自由な瞬間を味わうことになります。周りを見ると、他の人たちが見えるようになります。普段はなかなか目にできなかった世界を見るようになります。世界をより広く、深く見るようになります。

まさにこのことに、人々がよく見逃す余暇の特別な意味があり、これについて、古代からの哲学者たちは熟慮してきました。日常に余暇の時間があってこそ、「自分一人だけの生活」から「一緒にする生活」へと視線を向けることができるというのです。つまり、人々は日常の様々な荷物から身軽になった時、「どうすれば、一緒によく暮らすことができるだろうか」について考えるようになります。

これは、16世紀に、理想的社会を説いたトマス・モアの「ユートピア」でも重要なテーマでした。ユートピアでは、1日に6時間働きます。午前中に3時間働き、正午になると昼食を食べ、昼食後は2時間休憩をしてから再び3時間働きます。その後も十分な余暇時間があります。余暇の時間に、ユートピアの人々は何をするのでしょうか。もちろん、様々な遊びを楽しみます。これと共に「精神的自由と教養涵養」に余暇を費やします。自由な教養涵養を通して、「一緒によく暮らせる生活」について省察することになります。理想的国で起こることなんですって。もちろんです。しかし、理想に向かって歩かなければ現実は改善されません。

余暇の善用は、私たちを個人から市民へと成長させます。現実政治家であったベンジャミン・ディズレーリが、余暇は「文明化のメカニズム(civilizer)」と主張したのも、個人が市民として成熟していくためには余暇の役割が重要であることを語ったものです。歴史をさらにさかのぼって、セント・オーガスティンが、「余暇は聖なるものだ」と主張したのも、「一緒にする生活」の深い意味を伝えています。

プレミアムフライデーに家族と一緒に消費活動をすることも、共同体には役立つことになるでしょう。さらに重要なことは、市民社会の成熟のために、「身軽な週末のある生活」を保障する根本的かつ持続的対策ではないでしょうか。