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万里長征

Posted March. 02, 2017 08:28,   

Updated March. 02, 2017 08:31

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「空からけたたましい音とともに、引き続き弾丸が降り注いでいた。どんな気持ちで汽車から降りて畑まで走ってきて体を隠したのか分からない」。「韓国のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた女性独立活動家・鄭靖和(チョン・ジョンファ)の「長江日記」に出てくる一節だ。大韓民国臨時政府の要人たちとその家族が乗った列車が、中国広州の近くで日本軍の空襲を受けると、必死に逃げ出した姿を回想した。鄭靖和は、一人で過ごす臨時政府の要人たちの世話を引き受けて切り盛りするなどした。

◆1919年4月13日に上海で臨時政府が樹立されたのは、民族挙げての3・1運動の結実だった。しかし、初期の情熱は、時間の経過とともに徐々に沈み、国内外の同胞らの関心も徐々に減ってしまった。金九(キム・ク)が主導し、尹奉吉(ユン・ボンギル)が実行した1932年の虹口での義挙は、臨時政府が活力を取り戻す反転のきっかけとなった。しかし、報復に乗り出した日本帝国の弾圧により、臨時政府は、13年間活動根拠地としていた上海を離れなければならなかった。

◆外交部が広州で79年ぶりに発見した臨時政府庁舎は、1938年に2ヵ月ほど使用したところだ。鄭靖和が描いた日本軍空襲は、ここを急いで去った時に起きた。広州に来るまで、臨時政府は、杭州や鎭江、長沙の順にさまよった。広州以降も、1939年までは、柳州や綦江へと避難しなければならなかった。1940年に重慶に来てから、本格的な対日抗戦体制を整えた。8年間1万3000里(約5100キロ)を乗り越えていったこの行路を、臨時政府の人々は万里長征と呼んだ。

◆長沙時代に、楠木廳銃撃事件が起きた。ここで韓国国民党、朝鮮革命党、韓国独立党の統合会議が開かれた。不満を抱いたとある朝鮮革命党員が拳銃を乱射し、金九が重傷を負い、ひとりはついに死亡した。このような困難にも関わらず、臨時政府は統合と左右合作を諦めなかった。主要要人たちは、避難の時も常に他人のことを先に心配したという。昨日、ソウル光化門(クァンファムン)は、弾劾の賛否に分かれた両陣営の叫び声で、98周年を迎えた3・1節(独立運動)が顔負けするほどだった。ひたすら3・1精神で、命をかけた風餐露宿に耐えた先駆者たちが、子孫らの分裂した姿に背を向けるのではないかと怖くなる。




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