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[若宮啓文の東京小考]日本、「翌年の法則」で憲法改正に向かうか

[若宮啓文の東京小考]日本、「翌年の法則」で憲法改正に向かうか

Posted March. 10, 2016 07:15,   

Updated March. 10, 2016 07:20

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日本では安倍晋三首相が今年初めから憲法改正をしきりに唱えている。「自分の在任中に実現したい」とも言った。改憲が安倍氏の悲願だとはいえ、なぜいまこれを目前の課題にすえたのか。

私が思い当たるのは、昨年末に日韓両政府が発表した従軍慰安婦問題の合意のことだ。自らの持論を大きく譲って日韓の和解に踏み切った安倍首相が、年が明けるとともに改憲を打ち出す。これは「翌年の法則」を狙ってのことではないか。

翌年の法則…。実は私が発見して名づけたものにすぎないから、安倍首相が知るよしもない。だが、日本では50年前から韓国や中国との和解の節目を迎えるたび、しばしば翌年に国内の民族感情に応える法律などが生まれてきた。法則とは、その繰り返しのことである。

最初の例は日韓基本条約によって国交が開かれた1965年だった。調印の決め手は日本の外相がソウルを訪れ、過去に反省や遺憾の意を表したこと。その翌年にできたのが2月11日を建国記念日に定める法律だった。初代の神武天皇が即位したという神話に基づき、かつてこの日を紀元節と呼んで盛大に祝っていた。戦後に廃止されたが、これを復活せよという保守勢力の求めに応え、装い新たな祝日にしたのだ。

日中の国交が開かれた70年代には、78年に日中平和友好条約が結ばれた翌年に元号法が生まれた。明治とか昭和といった日本古来の年号(元号と呼ぶ)を公式制度として将来にわたり維持するのが目的だった。

80年代にも例がある。84年に全斗煥大統領が初の国賓として来日し、昭和天皇が初めて過去に「遺憾」の意を表した。大統領を招いたのは中曽根康弘首相だったが、彼は翌年の8月15日、靖国神社を大々的に公式参拝して右派の期待に応える。中国の激しい反発にあって次の年から取りやめたが、そこにも和解とナショナリズムの揺れがあった。

アジア侵略と植民地支配に対する首相の謝罪が続いたのは90年代だった。その極みは98年に来日した金大中大統領と小渕恵三首相の「日韓パートナーシップ共同宣言」だ。小渕首相が植民地支配を謝罪し、金大統領が「和解」の言葉を盛り込んだ。同じ年、中国の江沢民主席も来日し、似たような「日中共同宣言」も出された。

そして、この翌年に実現したのが「日の丸」と「君が代」を正式な国旗と国歌に定める法律である。戦争の暗い記憶が抜けない国民の間には抵抗も根強かったが、小渕政権は押し切った。

以上はいずれも偶然のできごとだろうが、こうも重なるとただの偶然とも思えない。背後に和解とナショナリズムの微妙なメカニズムがあるのではないか。

さて、慰安婦をめぐる昨年末の合意である。長年にわたる日韓の懸案だったが、日本政府が責任を認めて首相の謝罪を表明し、10億円の拠出も決めて和解に大きく踏み込んだ。だとすれば、今年はナショナリズムの出番かもしれない。

たとえ翌年の法則は知らずとも、右翼的な心情と現実的な政治感覚の間を泳ぐ安倍首相は、このバランスを知り抜いている。そういえば、昨年8月に出した「戦後70年の安倍首相談話」も和解と民族感情のごった煮だった。

とはいえ憲法改正ともなれば、その難しさは並大抵ではない。最大の焦点は軍隊の保持を禁じた9条だが、さすがの安倍首相もこれをすぐ改定できるとは思っていない。まず合意を得られる部分からやりたいと言うのだが、それでも国会の衆参両院で三分の二の賛成が必要だ。衆議院では与党が三分の二の議席をもつだけに、今年7月の参院選が勝負だと、首相は意気込んでいる。

だが、果たしてそうなるか。昨年は憲法9条の解釈を変える安保法制を強引に通して、国民の反発を買ったばかりでもある。その怒りを呼び覚ませば、安倍首相の狙いは裏目に出る。日本国民のバランス感覚がどちらに向かうか、今年の夏の大きな見どころである。

(若宮啓文 日本国際交流センター・シニアフェロー 元朝日新聞主筆)



도쿄=서영아특파원 東京=ソ・ヨンア特派員 sya@donga.com