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国を失った軍人

Posted March. 12, 2019 08:29,   

Updated March. 12, 2019 08:29

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1944年にイタリア上陸後、ローマに向かって進軍していた連合軍は、ドイツ軍の強力な抵抗に直面する。この時、行われた血戦がモンテ・カッシーノの戦いだ。第二次世界大戦史で最も大きく、激しい戦いの一つだ。1月から5月まで行われた戦いで、連合軍は、歴史的聖域としてドイツ軍さえ保護しようとしていたモンテ・カッシーノ修道院を爆撃しながらも、苦戦を強いられた。なんと4度も大攻勢を行った後、ようやくモンテ・カッシーノの占領に成功した。連合軍には米軍、英国軍、ニュージーランド軍、インド軍、グルカ兵部隊までが参戦したが、決定的な功績を立てた部隊は、当時は国を失った軍隊だったポーランド軍と自由フランス軍だった。

第二次世界大戦中、ポーランド軍は良く言えば戦闘の重要な局面に、別の言い方をすれば、一番大変で難しい局面に投入されることが多かった。ノルマンディー上陸作戦の最終段階で、連合軍はドイツ軍をほぼ袋の中に閉じ込めたし、ドイツ軍は最後の出口に向かって激走していった。圧力と抵抗が苛烈な袋の端を結ぶ任務に投入された部隊が、ほかならぬポーランド軍だった。あれほど猛烈に戦ったのに、ポーランド軍はすでに国を失った状態だったので、国際社会で自分たちの立つ瀬がなかった。以後、自分の国の運命を決定することにも参加できなかった。生き残ったポーランド軍とポーランド国民は、終戦後、さらに大きな悲劇を経験させられる。

太平洋で行われた戦いに、多くの朝鮮人労働者たちが日帝によって強制的に投入された。「玉砕(玉のように美しく散るという意味で、死を意味する)」を強要する日本軍の教理にしたがって、米軍に捕らえた捕虜は極めて少なかった。タラワではわずか145人だったが、そのうち128人が朝鮮人だった。この時に投入された朝鮮人は計1400人だった。

日本軍人の中にも、朝鮮人兵士がいた。米軍は朝鮮の事情を知り、朝鮮人と日本人を区別して収容したという。捕虜になった青年の中には、米軍に入隊して日本と戦うと志願する人々がいた。どうしていなかった訳があるのだろうか?しかし、米軍はジュネーブ条約に反するという理由で、朝鮮人部隊を編成することを認めなかった。国を失えば、戦うことすらできない。より多くの血を流して戦っても、正当な待遇を受けることができない。3・1節の季節にもう一度考えてみる。

歴史学者


シン・ムギョン記者 yes@donga.com