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パレフェス

Posted December. 05, 2018 08:15,   

Updated December. 05, 2018 08:15

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「祭り」に翻訳されるフェスティバルは一種の宴だ。芸術だけでなく食べ物や花、さらには宝石や伝説までもフェスティバルの対象だ。祭りに楽しさは基本なので、時には爆竹まで使って興をかきたてる。しかし、祭りという名前に似合わず、悲しい祭りがある。「パレスチナ文学祭」がそれだ。略してパレフェス。

万全の準備をして客を「待つ」祭りとは違って、パレフェスは世界の作家がパレスチナを「訪れる」祭りだ。パレスチナ人を取り囲む8メートルの高さの壁と鉄条網、検問所が祭りをそのように変質させた。10分で済む距離を数時間かけなければならないパレスチナ人が祭りを主催できないのが現実だ。

パレフェスに参加した作家は、昼には苦痛の現場を目にし、夜にはパレスチナ人のように詩の朗唱や討論など様々な活動をする。イスラエルの兵士に制止されるのが常だが、それを通じてパレスチナ人と連帯し、彼らの生き地獄のような暮らしとストーリーを世に知らせることができる。スリランカ出身の米国作家ルー・フリーマンは、見聞きしたことを思うと涙が出ると告白する。彼だけでなく参加者皆がそうだ。しかし、パレスチナ人は泣かない。イスラエルの暴力と定着民が吐き出すゴミと悪態にさらされる彼らに涙は贅沢だ。

しかし、参加者の目からは涙が流れる。現実がとても残酷だからだ。2017年に出版された『これは国境ではない』に収録された詩とエッセイはその涙の記録だ。参加者を涙ぐませるフェスティバルとは、すごいアイロニーだ。彼らはなぜフェスティバルという名称を使ったのだろうか。エドワード・サイードの言葉どおり、パレスチナ人の首を締める「力の文化」に芸術家が連帯する「文化の力」で対抗したいからだ。身体だけでなく文化的にも監禁状態のパレスチナ人を慰めたいからだ。パレフェスは祭りが正しい。

文学評論家・全北大教授


李沅柱 takeoff@donga.com