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中年以降の「魅力」

Posted November. 12, 2018 08:41,   

Updated November. 12, 2018 08:41

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「中年以降になって初めて私たちは人生のあれこれの姿の構造を貫く知識を積むことになり、そのようなことを判別し出す底力を体得することになる。人を評価するときは、外観ではなく、その人のどこかで光っている精神、存在そのものをありのまま受け入れられる時が中年である」(曽野綾子の「中年以後」)

すべてのことには時間が必要なもの。その真理を知らせてくれたのは、結局時間だった。より正確に言えば、生きてくる途中に出会った人たちだった。人を通じて肯定であれ否定であれ、表現の仕方を学び、人の心を推し量る目もできたし、人間である以上、誰も完全でないから、あえて成功した人生、失敗した人生もありえないという、人そのものを価値あるものとして受け入れられるまで、かなり時間がかかった。

よく50歳を身体的、精神的危機とみなす。この頃、女性は更年期の症状に苦しみ、男性もあれこれ健康が崩れて人生の価値基準が変わるときである。老いることも悲しいことなのに、以前に感じていた楽しさが、もはや楽しくもなく、自信の喪失により漠然とした不安感にまで襲われるとき、まるでコンピュータのバッファリング現象のように、不条理な人生の渦の中でさまようこともある。

捨てて空にしてからようやく老いていく価値が見え始めた。小さくは所有していた物から、正しいと信じていた観念までを空白にすると、これまで感じることすらできなかった現象が新鮮に映り、空いた中年の器を埋め始めた。特に自然と人間が与える感動ほど大切な楽しみはない。

年を取ることは、世の中にはいい人も悪い人もいない、人間そのものだけが存在するという事実に悟るようになること。人々はそれぞれ癖と頑固さがあるのが当たり前で、完璧さなどありえない。事情を知ると、たやすく良い人、悪い人、このようには語れなくなる。このような時はもちろん、混乱も感じるが、考えだけを変えれば、これも年を取りながら感じることのできるほのかな魅力ではないかと思う。