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宝物「臨清閣」

Posted August. 16, 2017 10:25,   

Updated August. 16, 2017 10:31

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洛東江(ナクドンガン)に沿っていくと、安東臨河(アンドン・イムハ)ダムの下で、川は北のほうに向きを変える。西側の鉄道の向こうの勾配のある敷地に、宝物第182号の臨清閣(イムチョンガク)がある。臨清閣とは、固城李氏の宗家である。1519年に建設され、壬辰倭乱後、二回重修された。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が8・15(日本植民地からの独立記念日)の祝辞で、独立運動家「石洲・李相龍(イ・サンリョン)」先生の実家である臨清閣にまつわるエピソードを語った。

◆李相龍先生は独立運動のため、友堂・李会榮(イ・フェヨン)一家が鴨緑江(アブロクガン)を渡った直後、全財産を処分した。1911年1月、奴婢文書を燃やした後、50人あまりの家族と一緒に西間島に行った。亡国の恨みを抱いてきた500人余りの同胞とともに、柳河県に韓国人村を建設した。独立運動と移住同胞を支援するため、自治機関である耕学社を組織し、新興武官学校を設立して独立軍を養成した。耕學社代表に推戴された先生は、1925年、上海臨時政府の初代国務令(内閣制下での大統領)を務めたことがある。

◆西間島での独立運動の柱である先生の家からは、独立有功者だけでも9人が出るほど、独立運動家が多かった。日本帝国はその報復として、中央線鉄道を建設する際、臨清閣をなくそうとした。固城李氏の一族と市民の反発が強かった。しかし、日本帝国は執拗だった。家を毀損するつもりで、線路が庭を貫通するように設計を変えた。短い10数キロの区間を二度も急激に曲がるようにした。工事費も数倍もかかった。線路のせいで、洛東江と繋がった臨清閣の絶景が毀損された。今は99軒のうち70軒のみが残っている。

◆日本が満州を占領した後、先生は「国土の回復前は、私の頭蓋骨すら移せない」という悲壮な遺言を残して、1932年に74歳で永眠した。先生と同様に、財産と地位を投げつけて教育事業と抗日武装闘争に献身した9歳年下の友堂も同年他界した。文大統領は昨年5月、ここを訪れて、「…臨清閣の完全な復元を誓います」という文を残したことがある。ソウル歴史博物館は、光復72周年を迎えて、友堂と5人の兄弟にスポットライトを当てた「民国の道、自由の道」と題した企画展を10月15日まで開く。お二人の痛切な愛国犠牲精神に頭が下がる。