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上海臨時政府、発足前から国内組織と連携した

上海臨時政府、発足前から国内組織と連携した

Posted May. 05, 2018 07:54,   

Updated May. 05, 2018 07:54

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京城(キョンソン=今のソウル)北村(プクチョン)の桂洞(ケドン)1番地にある中央(チュンアン)学校。樹木がうっそうとした三清洞(サムチョンドン)の斜面に位置している2階建ての赤レンガの学校が、巷の名物として浮上した。1917年11月、民族資本だけで、そして先生と生徒たちが直接地ならしをして石を運ぶなど、韓民族の情熱と汗で完成した新校舎だった。(「毎日申報」1917年12月4日付)

学校の創設者、仁村・金性洙(キム・ソンス、1891~1955)が直接選んだ敷地だった。裏からは北岳山(プクアクサン)の精気を受け、前からは京城を一目で見渡しながら生徒たちの浩然の気を育てようとした仁村の意志が込められた極めていい場所だった。

先生と生徒は皆髪を短く切った。300人の生徒たちは、海軍将校の服のような制服と黒い布で巻いた帽子を身に着けていた。日本帝国に対する抵抗の印象を濃く漂わせる頭髪と制服だった。民族学校に通う生徒たちは、ものすごい誇りを持っていた。中央学校が有名になると、日本の官吏たちの間では、「誰が中央学校を許可したのか」と責任の問題が浮き彫りになるほどだった。(「古下・宋鎭禹(ソン・ジンウ)の伝記」)

教師らの陣容も華やかだった。崔奎東(チェ・ギュドン)、李重華(イ・ジュンファ)、李光鍾(イ・グァンジョン)、李奎榮(イ・ギュヨン)、權悳奎(クォン・ドクギュ)など当代の巨匠たち、金性洙、宋鎭禹、崔斗善(チェ・ドゥソン)、李康賢(イ・ガンヒョン)、玄相允(ヒョン・サンユン)、羅景錫(ナ・ギョンソク)など、日本留学をしたそうそうたる実力派たちが生徒たちを教えた。創設者である仁村は、直接英語と経済を教える平教師として働き、校長の古下・宋鎭禹(1890~1945)は、自分の給料よりも多い金額で教師たちを優遇した。朝鮮人社会の仁村と中央学校への期待がを大きいほど、日本帝国総督府の監視と警戒は強化された。(「仁村金性洙」伝」)

事実、中央学校は、敎育光復、民族更生の発祥地らしく、民族運動家を輩出する養成所であり、排日独立の意志を育てる源だった。日本帝国へのテロで日本人の肝を抜かした義烈団団長の金元鳳(キム・ウォンボン)と朝鮮義勇隊を創設した金枓奉(キム・ドゥボン)、「奪われた野原にも春は来るか」で有名な民族詩人、李相和(イ・サンファ)など、そうそうたる独立運動家たちが中央学校の出身だった(「中央百年史」)。また、中央学校の生徒たちは、3・1運動(独立運動)が展開されると、デモを主導した。この時、日本帝国に検挙され、体刑を受けた中央学校の生徒だけでも、確認された範囲だけで30人ほどと知られたほどだ。(「仁村金性洙」伝」)

●中央学校の宿直室は国内と海外を結ぶ拠点

1919年1月、冬の北風の中でも「北村の名所」として定着した中央学校のキャンパスは、微妙な熱気で盛り上がっていた。東京の留学生宋繼白(ソン・ゲベク)が2・8独立宣言書の草案を持って中央学校を訪ねてきてから、3・1運動を謀議する策源本部に変身したのだ。

教室前の運動場の南東側に位置する中央学校の宿直室(当時は校長の社宅として活用)は、夜遅くまで灯りが灯っていたりした。設立者の仁村と校長の古下、教師の幾堂・玄相允(1893~?)が一緒に暮らしながら、民族の未来を設計した。また、外部から訪ねてきた志士たちは、生徒たちが外で日本密偵の尾行を監視する間、中央学校チームと一緒に密かで積極的に独立運動について議論した。

仁村と古下は、近くの金司鏞(キム・サヨン)の家(桂洞130番地)で食事を解決した。自然に仁村のソウルの住まいも、食事を口実にした独立運動の会合場所となった。海外留学派たちと国内志士たちは、ソウルに来たら当然、中央学校と仁村の住まいを訪問したりした。米国で活動中の呂運弘(ヨ・ウンホン、呂運亨の弟)が、パリ講和会議に提出するために「独立請願百万人署名」を受けてこいという密命を受けて国内に潜入した後、まっすぐに訪れたのも仁村の住まいだった。(李敬南、「雪山張徳秀」)。呂運弘も中央学校の出身だった。

このように北村は、中央学校を中心に国内と海外とを結ぶ拠点となった。問題はその次からだった。国内で大規模な独立運動をどのように引き出すかということだった。金性洙、宋鎭禹、玄相允などの中央学校チームは、国内の独立運動はその性格上、一つ、二つの宗派や団体の力だけでは成功できないと考えた。したがって、国内の主な民族勢力がすべて団結して旗揚げをし、国外でこれ応援する活動が最も効果的で理想的な運動になると判断した。(「古下宋鎭禹の伝記」)

彼らはまず、天道教に手を差し伸べることにした。宋繼白が持ってきた2・8独立宣言書(素案)を説得の「武器」として活用した。玄相允は宋繼白を連れて、崔麟(チェ・リン、1878~1958)を訪ねた。天道教傘下の教育機関である普成(ポソン)学校の校長崔麟は、玄相允と宋繼白の普成学校時代の師匠でもあった。

崔麟は、宋繼白が差し出した独立宣言書を見てびっくりし、天道教の首長孫秉熙(ソン・ビョンヒ、1861~1922)にすぐに報告した。孫秉煕は早くから李鍾一(イ・ジョンイル)が率いる天道教救国団などによる情報網と団結した組織力をもって大事を計画していたところだった。孫秉煕はこの宣言書に接しては、国内外勢力と連携して、民族的偉業を行うことを決心した。

孫秉煕の仲間入り発言を確認した宋鎭禹と玄相允などは、すぐに崔麟の家の内室に集まって、祝杯を兼ねた秘密会合を開いた。天道教教主の孫秉煕の意見を代理する崔麟は、中央学校チームと一緒に独立運動の偉業の主役として参加した。

彼らは夜遅くまで、独立運動の実行を巡って具体的な計画と方法について議論した。まず民族代表者の名義で朝鮮の独立を宣言した後、その宣言書を印刷して全国に配布し、国民が総動員された大規模なデモ運動を展開して、朝鮮民族の独立願望を国内外に知らせる順序で運動を展開することに結論付けた(玄相允、「3・1運動発生の概略」)

あいにくなことに、崔麟と孫秉熙もまた北村に居住していた。崔麟は齋洞(チェドン)68番地(現在の憲法裁判所の敷地)に住んでいたし、孫秉熙は嘉会洞(カフェドン)170番地(現在の北村美術館の敷地)に留まっていた。民族代表33人中一人である萬海・韓龍雲(ハン・ヨンウン)が運営していた惟心社(ユシムサ=桂洞43番地)もまた北村に巣を作っていた。あれこれ朝鮮以来、両班の執権層が集まって住んでいた北村は、3・1独立運動の最前線の基地となった。

●李光洙の文章に刺激を受けた崔南善

2・8独立宣言書は、当代の大文章家として有名な崔南善(チェ・ナムソン、1890~1957)の参加までを引き出した。当時、新文館(シンムングァン=乙支路221番地)という出版社を経営していた崔南善は、18歳の時に韓国初の新体詩「海から少年に」を発表した文人で、東京留学生出身の李光洙(イ・グァンス)、洪命憙(ホン・ミョンヒ)と一緒に「東京三才)と呼ばれた。また、国内外の独立宣言運動に直接かかわっていた三人は、後日東亜(トンア)日報に身を置いた奇縁と一緒に「朝鮮三才」と呼ばれるなどした。事実、仁村と古下は早くから彼らの三才を注意深く見てきた。

宋鎭禹と玄相允は、東京留学生たちの偉業計画前から崔南善を巻き込んで、独立運動を一緒にするために多大な努力をつぎ込んだ。しかし、あれほど力を入れたのに、崔南善は、「私は政治を知らない人だ」とビクともしなかった。そんな彼に宋鎭禹が差し出した切り札が、ほかならぬ2・8独立宣言書だった。宋鎭禹はちょうど中央学校を尋ねてきた崔南善に、宣言書を差し出した。崔南善は東京後輩たちの偉業計画と独立宣言書を見ては、大きな衝撃を受けた。崔南善は顔色を赤くしたり青くしたりしながら、宣言書を読む手までが震えた。さらに、李光洙が素案作成に参加したという話を聞いては興奮した声で、国内で使用する独立宣言書は自分で作成するとまで約束した。(「古下宋鎭禹の伝記」)

崔南善は独立宣言書をはじめ、日本政府と貴族院、衆議院と朝鮮総督府に送る通告書、米大統領ウィルソンに送る請願書、パリ講和会議の諸国委員に送る書簡までを引き受けて執筆することにした。

ところが宣言書を任せる側の立場では、焦りが生じるしかなかった。宣言書が発覚すれば、すべてのことが水の泡となるからだった。さらに、崔南善は、一年前の1918年9月、天道教側から独立宣言書の執筆を頼まれたが、完成できなかった「前歴」を持っていた。(「默菴備忘錄」)

当時、日本帝国の要視察対象だった崔南善は、自分の家である三角町(中区三角洞)の代わりに、初音町(現在の乙支路5街の五壮洞)近くの日本人女性(小澤)の家の生徒の勉強部屋を3週間借りて、密かに文を作っていた。ある日、玄相允が宣言書の作成がどの程度進んでいるかを確認するために、崔南善が泊まっている日本人の家を訪れた。崔南善は家にいないと言われて、そのまま帰ろうとしていたところ、日本人の女性が言った。(以下、玄相允の回顧、東亜日報の1949年3月1日付)

「玄先生が何のためにここに来られたのか、私はよく知っていますよ」

玄相允は瞬間とんでもないという表情で、「知るとはいったい何のことかな?私はたた、崔先生に会いに来ただけだから」とごまかした。すると彼女は大きく笑いながら、「どうせここまで来られたのだから、入ってきてご覧になったらいかが」と部屋に入って来るように勧めた。日本人女性から無理矢理に誘われて部屋に入った玄相允は仰天した。彼女が自分の襟から独立宣言書を取り出して、それを見せるのではないか。玄相允が真っ青になったまま宣言書を読んでいる間、彼女は息子(日本人の元夫との間に生まれた21歳の青年)まで呼んでは、彼の襟から日本政府に送る通告書まで取り出して示した。

実は日本人女性は、日本で留学していて、崔南善と一緒に帰国した林圭(イム・ギュ、1867~1948)の妻だった。当時林圭は、中央学校で日本語を教えていたが、崔南善が経営していた朝鮮光文会に入って古典書籍出版の仕事を担当していた。3・1独立宣言書と独立請願書などを日本語で注釈・翻訳した後、日本に渡って日本内閣と衆議院、貴族院などに郵便で通告した人物でもある。

後で玄相允は危険な真似をした崔南善を問いただした。すると崔南善は、「我が家や朝鮮人に預けておくよりも、日本人に預けておいたほうがより安全な気がしてやったまでのことだ」と答えた。もっともらしい秘密措置とはいえ、玄相允は3・1運動が起きる日、その瞬間まで一本橋を渡るようにはらはらした。玄相允は、「3・1独立運動は本当に神佑天助だった」とも振り返った。


アン・ヨンベ記者 ojong@donga.com