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[オピニオン]臨終偈を書く人生

Posted September. 29, 2016 07:28,   

Updated September. 29, 2016 08:32

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「鼻の穴のない牛になるという話を聞き/突然三千世界がみな私の家であることを知った」。この地の禅を中興した鏡虚(キョンホ)禅師(1849~1912)が悟りの境地を表現した悟道頌だ。これといって難しい言葉がないのに難解に感じられる。分かったような、分からないような禅問答のように論理と常識を越える奥深い哲学的思惟を含んでいるからだ。

◆仏教には道を悟った時の悟道頌と共に亡くなる時に最後に残す臨終偈の伝統がある。涅槃訟とも言われるが、僧侶が直接書き残したり、弟子が書き取ったりする。1993年、性徹(ソンチョル)僧侶が入寂直前に残した臨終偈は、韓国社会に広く知られた。「生涯、男女の群れを欺き/空からあふれる罪業は須弥山(スミサン)を越える/生きたまま阿鼻地獄に落ち、その恨が万の枝に分かれる/丸い輪が赤を吹き出し、青い山にかけられた」。

◆全羅北道金堤(チョンラプクト・キムジェ)の金山寺の月珠(ウォルジュ)僧侶(81)が最近、悟道頌と臨終偈の乱発に苦言を呈した。修行者が生涯を精進したならそれが立派な人生なのに、粗雑に修行した人が悟道頌を出したり、臨終偈なく他界した僧侶の弟子が無理に臨終偈を作って発表したりする現実を指摘したのだ。月珠僧侶は、「1970年代、青潭(チョンダム)僧侶が入寂した時、周囲が臨終偈を出そうと言ったが、青潭僧侶が生きてきたこと自体が臨終偈であり、別途に臨終偈がなぜ必要かと言って出さなかった」と話した。そして、「粗雑な悟道頌、臨終偈を出してはならない。私の臨終偈も私が生きてきた姿だ」と強調した。修行者に対する誇張と美化を警戒する思いがあるのだろう。

◆法頂(ポプチョン)僧侶も過去に同じ脈絡の話をしたことがある。「ある僧侶は『臨終偈を残してほしい』という弟子を叱り、『私がこれまで言った言葉がまさに臨終偈だ』と言った。どんな言葉を残したかが重要なのではなく、どんな人生を送ったかを見せなければならない」。人生の最後に私が残す臨終偈は、まさに「私自身が生きてきた人生」という悟りの竹箆(しっぺい)の音。その中に重いテーマが含まれている。「今あなたはどんな臨終偈を書いているのか」

高美錫(コ・ミソク)論説委員 mskoh119@donga.com



고미석기자 コ・ミソク記者 mskoh119@donga.com