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他人の悲しみを見る目

Posted April. 24, 2019 08:19,   

Updated April. 24, 2019 08:19

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誰かが悲しむ姿を見れば、私たちは、自分も知らないうちに、その悲しみに捕らわれる。共感能力を持って生まれたからだ。英国の詩人ウィリアム・ブレイクの「他人の悲しみ」は、その共感をテーマにした暖かい詩だ。「他人の苦しみを見て/私も悲しまないはずがないでしょう?/他人の悲しみを見て/私が温かく慰めてあげないわけがないでしょう?」詩人は共感の問題を、子供を眺める親の心にまで拡張する。「流れる涙を見て/私はどうして悲しまないでしょうか?/子が泣いているのを見て/父がどうして悲しまないでしょうか?」。はたしてこれより自然な感情があるだろうか。

ところが、誰かに共感するためには、基本的に備えなければならないものがある。他人の悲しみを悲しみとして見ることのできる純粋な目を維持することだ。それでこそ、他人の悲しみを見て一緒に悲しみ、慰めることもできるだろうから。

もし我々が純粋な目を失うことになれば、どんなことが起きるのだろうか。当然他人の悲しみや涙は何の意味もなくなる。他人の目から流れる涙が見えないから、その涙に捉われるはずがない。愛する誰かを失って、泣きじゃくる人をあざ笑い、卑下して踏みにじることが時々生じるのは、他人の悲しみを見る純粋な目を失ったからだ。人間が流す悲痛な涙の前では、堅く閉じられた天の扉も開かれ、ブレイクの詩句のように、神も人間のそばで呻くと言われるじゃないか。「あの方は、私たちの悲しみが消えるまで/私たちのそばに座ってうめいておられるでしょう」。だから、同じ人間として悲しむ人を慰めることはできないまでも、少なくとも侮辱してはならないことだ。その対象が誰であれ。

だから、ブレイクの他人の悲しみは、常識を歌った詩である。他人の悲しみに捕らわれる共感能力は人間に与えられた偉大な贈り物だが、他人の悲しみを見ることのできる目を失えば無用の長物になるという常識。この常識が人生を支える倫理の基礎をなす。

文学評論家・全北大学教授