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干し菜のスープ

Posted December. 08, 2018 07:35,   

Updated December. 08, 2018 07:35

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今や都市ではなかなか見られなくなったが、かつては家ごとに干し菜が多かった。大根は切って食べて、葉っぱと茎だけが残れば、その大根の茎と葉っぱを編んで軒先に吊るしておいた。干し菜は冬の間、あるいは春まで良い食材になった。母はそれを水に戻して、洗濯物のようにこすった後、あれこれ様々なおかずを作ってくれた。味噌鍋にも入れ、肉のスープにも入れ、エゴマ油をかけたナムルとしても作ってくれた。

その中でも、この詩は、干し菜のスープを素材として選んだ。詩人は、空腹というよりは、心がすいた状態だ。魂の空腹を満たすために、彼は自分の最も暖かい記憶を探しに出た。干し菜のスープは、祖母が作ってくれた幼年の食べ物、詩人が知っている最も幸せな料理である。これは、詩人の実際の胃ではなく、心の胃を満たすために選ばれた。詩人は干し菜のスープを食べながら、祖母にも会い、娘にも会う。いや、おばあちゃんと娘と故郷に会うために干し菜のスープを食べるというほうが正確といえる。だからこの詩に登場する「干し菜」は、干し菜でなくてもよい。誰かには大根のスープ、誰かには麺、誰かにはうどんになることもある。

天気が寒くなっており、ますます熱いスープが一杯思い出される。寒い末に体調を崩したり、年末の最後に心が痛くなれば、スープはますます恋しくなるだろう。喉を越えていく暖かさに安堵しながら、私たちは、故郷や恋人、両親や友人を思い浮かべるかもしれない。ならば、それこそまさに魂の食べ物である。魂の食べ物はそれぞれ異なるが、常にあり、いつでも必要である。

文学評論家