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象の哀悼

Posted November. 14, 2018 08:35,   

Updated November. 14, 2018 08:35

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悲しみに包まれた存在は、他の存在の悲しみにとりわけ敏感に反応する。詩の売れない時代に「離散(A Scattering)」という詩集で2009年、「コスタブックアワード」を受賞したクリストファー・リード、あの英詩人もそうだった。詩集のタイトルであり表題作でもある「離散」は、他の存在の悲しみを見つめる悲しい詩人の姿を示している。

ここで、他の存在とは象である。彼の詩の中の象が、私たちを悲しませているのは、象の哀悼に詩人の哀悼が重なっているからだ。彼の詩の最初の行(「あなたはそのシーンを見たのでしょう」)が物語るように、象が哀悼する姿は、私たちがその気さえあればユーチューブで簡単に確認できるシーンである。

象たちは通り過ぎる途中、道端で同族の骨を発見すればその場に止まる。彼らが生前に知っていたはずの死んだ象の骨、肉は食われ、一山の骨として残った象の残骸。象たちは骨を取り囲んで沈黙に落ちてしまう。ところが、彼らのうち一頭が骨に触れ始める。鼻で巻いて象牙にまで持ち上げたり、左右に振ったりもする、あるいは後ろ足で慎重に触れることもある。その姿がなんだか粛然としていて悲しげに感じられる。それは、哀悼は人間の専有物ではないという証拠だろうか。詩人は、象が骨に触れたり散らかしておくことが、彼らならではの「長い儀式」、すなわち哀悼の仕方かもしれないと思う。体格と悲しみが比例するわけではないだろうが、象の巨大な体つきが悲しみの大きさを物語っているような気がする。巨大な「悲しみの体」。

詩人は同族の骨に接する象の行動を見ながら、愛する妻を亡くした絶望的な悲しみに陥っている自分を振り返る。彼も象のように沈黙の中で骨に触れたり、散らかしておきながら同族を哀悼する象のように、「悲しい思いを新しく希望的に」並べながら愛していた人を覚えていたい。だから象の「魂よ、私を案内してくれたまえ」。死は終わりではなく、記憶の始まりなのだから。

文学評論家・全北大学教授