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残酷な戦争を生々しく…現場に夢中だった写真の巨匠

残酷な戦争を生々しく…現場に夢中だった写真の巨匠

Posted June. 25, 2018 09:36,   

Updated June. 25, 2018 09:36

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ハンガリーのブダペストで生まれたロバート・キャパ(本名アンドレ・フリードマン=1913~1954、写真)は、伝説的な報道写真家だ。「写真に満足できないのは、あまりにも遠くから撮ったからだ」と主張し、コンタックスカメラ一台を持って戦場を歩き回った。戦争の悲惨な実状を知らせるには、百の言葉より一枚の写真のほうがより強力な力を発揮した。ノルマンディー上陸作戦当時の兵士たちを写した写真1枚は、第二次世界大戦の決定的な瞬間を記録した。「プライベート・ライアン」「ダンケルク」などの戦争映画を制作するために、インスピレーションを与えたりもした。

ベルリン政治大学に入学した彼は、ハンガリー経済が崩壊して、家族からの支援が途絶えると、デフォト通信会社で暗室補助として働いて、初めて写真に接した。ソ連でスターリンと対立して追放されたレオン・トロツキーが1932年、コペンハーゲンで初めて大衆向け演説をする場面を撮って、報道カメラマンとしてデビューした。以後、パリでドイツ出身のユダヤ人女性ゲルタ・ポホリレに会って恋に落ちる。

貧しい生活が続くと、1936年、彼はロバート・キャパに、ポホリレーはゲルダ・タローに改名する。二人は「ロバート・キャパ」という米写真作家を作り出して、写真価格を3倍も引き上げて大儲けをする。

キャパの評判を高めたのは、スペイン内戦(1936~1939)だった。キャパとタローはマドリード、セゴビアなどで臨場感あふれる写真を転送した。特にアンダルシアのコルドバでとある兵士が銃に撃たれて倒れるシーンをとらえてスターになった。しかし、1937年、タローがタンクにひかれて死亡すると、キャパは衝撃に陥る。表紙に代表作「銃に打たれる兵士」の写真を入れた本「進行中の死」(1938年)を故人に献呈した。

悲しみを忘れるために、彼は再び戦場に発つ。日中戦争(1938年)が繰り広げられていた中国で、約7ヶ月間取材した。キャパは、戦争の緊張の中で酒、女、ギャンブルに溺れた。ロンドン空襲に耐えた労働者たちを盛り込んだ本「ワーテルロー家の戦い」(1941年)を手がけながら、人妻のピンキーと交際する。「その時、キャパの手は震えていた」(1947年)は、ニューヨークでペーパー上の結婚で米国人になった彼が、第二次世界大戦に参戦した経験を書いた回顧録だ。

世界大戦が終わると、失業したキャパは、ハリウッドのトップスター、イングリッド・バーグマンとパリで会う。歯科医師の夫に娘までいたスウェーデンの女優は、13歳の時に亡くなったボヘミアン写真家の父に似たキャパの誘惑に負ける。二人は2年間熱く恋をしたが、結局別れた。

キャパは1947年、同僚たちとマグナム通信会社を創設し、中東戦争(1948~1950年)取材のためにイスラエルを訪れた。インドシナ戦争の終盤だった1954年、「ライフ」誌のベトナム特派員として派遣され、5月25日、フランス軍が紅河デルタの要塞を破壊する作戦を取材する。薮の間で進軍するフランス軍を撮るために立ち止まった瞬間、彼は地雷を踏んで散華した。ベトナムで戦争中に亡くなった最初の米国人報道カメラマンだった。

マグナム創立同志だったアンリ・カルティエ=ブレッソンは、写真エッセイ「魂の視線」で、キャパをこのように思い出した。「彼は渦の中で高潔に戦った。運命の女神は彼が栄光の絶頂で倒れることを願った」。

地理学者・京仁(キョンイン)教育大学教授


孫曉林 aryssong@donga.com