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改修工事を終えた彌勒寺址石塔

Posted June. 21, 2018 09:23,   

Updated June. 21, 2018 09:23

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20年の歳月が必要だった。原形がまったく分からない石塔のてっぺんは、そのまま残しておいた。その代わり、1400年の時間に耐えてきた部材(塔の材料)と新たに石塔を支える石が一体となって、新旧の調和を成した。韓国最古であり、最大石塔である全羅北道益山市(チョンラブクド・イクサンシ)の彌勒寺址(ミルクサジ)西石塔(国宝第11号)が、20年間の補修工事を終えて、20日その姿を現した。

●薯童謡の主人公である武王の念願を込めた石塔

彌勒寺址石塔は、「薯童謡(ソドンヨ)」の主人公であり、百済の中興期を導いた武王(ムワン)時代(600〜641)に建てられた。3塔3金堂(仏を祀った建物)の伽藍配置で構成された彌勒寺の西にあったが、石塔にもかかわらず、木塔のように2800個以上の石材を組み立てた形で作られたユニークな造形美を誇る。2009年、補修中に心柱石(塔の中心の柱石)の内部にあった「舍利莊嚴具」が発見され、建設年度が639年であることが確認された。この時に発見された舍利莊嚴具は、宝物に指定された。

歳月の波風と共に、石塔も大きく毀損された。統一新羅時代に地震で塔の一部が崩れた。18世紀に朝鮮の文人だったカン・フジンが書いた「臥遊錄」には、石塔が7階まで残っていたという記録がある。1915年、日本帝国は彌勒寺址石塔を調査して、緊急補修を要する「甲」の評価を下した後、石塔の西側をコンクリートで塗り替えてしまった。教科書などに載せられた醜い彌勒寺址石塔の姿は、この時に作られたものである。

●文化財修理歴史のマイルストーン

1998年の構造安全診断の結果、コンクリートが老朽化して、構造的に不安だという判断に基づいて、解体・復元作業が始まった。問題は、彌勒寺址の原型を示す資料が全く残っていないということだった。25メートルの高さの9層と推定されたが、6層まで実測資料が残っており、具体的な推定は不可能だった。特に1993年、韓国文化財復元で最も失敗した事例に挙げられる彌勒寺址東側石塔の二の足を踏まないために、様々な公論化の過程を経た。明確な考証もなく推定によって9層に復元した東側の石塔について、兪弘濬(ユ・ホンジュン)元文化財庁長は、「最悪の復元事例であり、ダイナマイトで爆破してしまいたいという人までいる」と酷評した。

議論の末、形態を確認できる6層まで部分復元することを決めた。原型を最大限維持するという原則の下、残っていた部材の再利用を何と81%まで引き上げた。単一文化財補修整備の中では最長期間である20年に渡って、修理が行われた。日帝が忌まわしい形で塗っておいたコンクリート185トンを、歯科用ドリルで精密に除去するだけで3年がかかった。

最新の文化財復元技術も総動員した。解体した部材を基に、再度組み立てる石塔の設計のため、3Dスキャンで2800個の石を一つ一つ測定した。壊れた昔の石と新しい石との間にチタン0.33%を接合する黄金比率を開発するなど、文化財補修関連技術の特許だけで5件を取得した。国立文化財研究所のぺ・ビョンソン建築文化財研究室長は、「彌勒寺址石塔の復元過程で得られた文化財復元新技術を、カンボジアとラオスなどでの文化財政府開発援助(ODA)に活用するなど、韓国文化財界のマイルストーンを立てた」と話した。

彌勒寺址石塔は、外部の仮設構造物の解体と周辺整備が終わる今年11月に、一般公開する予定である。来年3月12日に完成する。639年(旧暦1月29日)に舎利を奉安後、正確に1380年ぶりに再び自分の姿を取り戻すのである。


柳原模 onemore@donga.com