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「スキー女帝」リンゼイ・ボン、最後の五輪は銅メダル

「スキー女帝」リンゼイ・ボン、最後の五輪は銅メダル

Posted February. 22, 2018 09:14,   

Updated February. 22, 2018 09:14

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リンゼイ・キルダウという無名の高校生で五輪に初出場してから16年が過ぎ、リンゼイ・ボン(34=米国)というスーパースターは自身最後の五輪滑降レースに力強く飛び込んだ。8年を待ち侘びた。昨年亡くなったが天国で孫娘を見守ってくれる祖父のために、全てを振り絞るという気持ちで。フィニッシュラインを通過したボンにとって記録は大きな意味はないように見えた。思い残すことなく全てを出し切ったボンの顔には笑みがこぼれていた。

「スキー女帝」ボンが21日、旌善(チョンソン)アルペンスキー競技場で行われた自身最後の五輪滑降を銅メダルで締めくくった。7番目でレースに臨んだボンは1位のソフィア・ゴッジャ(26=イタリア)に0.56秒遅れた1分39秒69をマークした。銀メダルはゴッジャに0.09秒遅れたラグンヒル・モビンケル(ノルウェー)だった。

五輪デビューを果たした2002年ソルトレーク大会で6位に入り一躍スターに浮上したときも、ボン自身は気づかなかったことだろう。平昌(ピョチャン)の表彰台に立つまでの旅程がこれほどまでに苦しいものだとは。

五輪とボンの関係は「悪縁それ以上」だった。2006年トリノ五輪でボンは開会式も開かれる前に、練習中に大きく転倒してヘリコプターで運ばれた。背中にあざができたまま4種目に出場したが、最高成績は7位だった。それでもボンは、苦しかった分、大きな教訓も得たと当時を振り返った。「スキーでは1秒もしない時間内に全てが終わることもあり得ることを受け入れてからは、時間を無駄遣いしていられなかった。毎試合、自らを限界まで追い込んだ」。

ボンの全盛期は2007年にトーマス・ボン氏と結婚して「リンゼイ・ボン」の名前を得たから始まった。女子最多優勝記録も、2010年バンクーバー五輪での米国女子代表初の五輪滑降金メダルも、このときに出た。

しかし2013年に離婚してから、自ら「キャリアで最も暗かった瞬間」だと言う試練が始まった。2014年ソチ大会直前に膝のじん帯が断裂し、五輪出場が水の泡となったほか、数々の負傷に苦しんだ。

2016年11月、練習の途中右腕が骨折したときは、平昌五輪出場は遠のいたと見られた。だが3ヵ月ぶりに復帰する闘魂を発揮した。感覚が完璧に戻っていない右手にテープでポールを巻いて滑った平昌五輪テストイベントで、ボンはスーパー大回転と滑降で2位となった。

外国人では唯一の広報大使を務めるほどボンにとって平昌は特別だった。ワールドカップ(W杯)最多優勝記録(86勝、インゲマル・ステンマルク)への挑戦も重要だが、ボンは今シーズンに少しでも体に違和感を覚えると、直ちに大会出場を放棄した。平昌五輪に全てかけたのだ。

五輪をわずか100日後に控えて亡くなり一緒に出来なかったが、ボンは亡き祖父に誇らしく見せられるようなレースを準備した。若いとき韓国戦争に参戦した祖父は、亡くなる前まで孫娘の最後の五輪を観戦する計画を組むのに余念がなかったという。

試合を終えたボンは、「ソフィアが滑るのを後ろから見て、簡単に勝てそうにないなと思った。ミスなく滑りきったので、悔いはない。いつもそうだが、一番早く滑ろうと頑張ったし、競争を楽しんだ。最後の五輪滑降レースで表彰台に立つことができたことを誇りに思う」と笑顔で語った。

ボンは、最後の五輪に応援に駆けつけた家族にも格別な感謝の気持ちを伝えた。「最後の五輪を家族、中でも父と共にすることができて特別だった。バンクーバー大会には会場に来れなかったが、今日は銅メダルを獲得する姿を見せることができて嬉しい。祖父が亡くなってから、私たちに与えられた人生がどれだけ短いのか改めて気づかされた。家族と多くの思い出を作りたい。私の家族みんなのレースだった。これまで私のために家族みんなが多くの犠牲を払った。私も、良い姉さん、良い伯母でありたかった」。

自身の主力である滑降を終えたボンは22日、複合の出場を最後に忘れられない場所となった平昌と別れる。


任寶美 bom@donga.com