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来た道を戻ることなく最後まで

Posted February. 20, 2018 09:00,   

Updated February. 20, 2018 09:00

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オリンピアンにとって五輪は「自分の時計の針が回る理由」(ショートトラックのシム・ソクヒ、21、韓国体育大)だ。五輪を目指して心と体を鍛えてきた選手たちは、平昌(ピョンチャン)の氷上と雪原で疾走し、反転と感動と遺憾が交錯する歴史を描いている。勝利の歓呼と敗北の嘆きの間で名言も溢れ出ている。名勝負とともに長く記憶される平昌語録だ。

負傷で7回も手術を受けたイム・ヒョジュン選手(22・韓国体育大)には、初めての五輪に向けた特別な注文が必要だった。イム選手がインスタグラムに書いた注文は、「ne doubt ye nought(疑うな)」。脛骨と手首に続き腰まで骨折したが、死に物狂いで練習して「疑い」をなくし、開会式の翌日の10日、ショートトラック男子1500メートルで五輪新記録を打ち立てた。

ショートトラックのエース、 チェ・ミンジョン選手(20)は13日、女子500メートル決勝選を2位で通過したが失格となった。涙の「氷の女王」は「ほかの競技では泣かない」と誓った。「来た道を戻ることなく最後まで」。チェ選手は17日、1500メートル競技を制し、最も高い表彰台に立った。スケルトンの皇帝、マルティンス・ドゥクルス選手(34・ラトビア)の8年間の長期政権を終わらせたユン・ソンビン選手(24・江原道庁)の16日の優勝の感想は、平昌冬季五輪後のさらなる注文だ。「韓国スケルトンの終わりではなく始まりになりたい」。

皇帝と女帝が次々に新鋭にひざまずいた。しかし、スノーボードのベテラン、ショーン・ホワイト選手(32・米国)は、スノーボード男子ハーフパイプ決勝ですばらしいジャンプを披露した一回り年下の平野歩夢選手(20・日本)を必殺技で退け、3回目の五輪金メダルを首にかけた。7歳の時からスポンサーがついたスノーボーダーは、昨年10月にジャンプで失敗し、顔を62針も縫った。家族は「これ以上実力を立証する必要もない」と平昌行きを引き留めたが、彼は聞かなかった。「鏡を見るたびに傷跡を見た。その傷が私をさらに強くさせた」。彼は傷跡の原因となったその回転技術で、2014年のソチ五輪でのノーメダルの雪辱を晴らし平昌でレジェンドとなった。

4回転ジャンプを6回もとぶジャンプの怪物、ネイサン・チェン選手(19・米国)を退けて優勝したフィギュアの王子、羽生結弦選手(24・日本)も「右脚に感謝している」と言った。昨年11月、ジャンプの着地に失敗して転倒し、右足首の靭帯を損傷した彼は、今回の大会で技術よりも演技の完成度に集中した結果、66年ぶりの男子シングル2連敗という大業を成し遂げた。「災い転じて福となす」の典型だ。「全てが順調だったなら、金メダルを取ることはできなかっただろう」。

すべてのオリンピアンの目標がメダルというわけではない。ソチの金メダル2個を含めショートトラックでメダル5個を獲得したパク・スンヒ選手(26)は、平昌では種目を変えた。最後の五輪の舞台で「ショートトラックの頂点ではなくスピードスケーティングの底辺」を選んだのだ。彼は「無謀な挑戦を応援してくれてありがとう」と言い、「N放世代」にメッセージを残した。「20台よ! On Fire!」。

22日に46歳の誕生日を迎えるドイツのクラウディア・ペヒシュタイン選手は、今回が7回目の五輪だ。彼女は歴代五輪で金5個を含め計9個のメダルを獲得した。平昌スピードスケート女子5000メートルに共に出場した選手17人のうち9人は、彼女が1992年のアルベールビル五輪で銅メダルを取った時、生まれてもいなかった。「もう休む時ではないか」という質問が平昌でも出た。「私より若い選手たちを破った。同い年の誰も私より速くない。未来は誰も分からない。またメダルを取る機会があるかも知れない。2022年の北京五輪に出るかって?不可能ではないだろう!」。


南時旭 @donga.com