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1991年ユース選手権のコーチと選手が語るサッカー「南北合同チーム」の舞台裏

1991年ユース選手権のコーチと選手が語るサッカー「南北合同チーム」の舞台裏

Posted January. 18, 2018 10:02,   

Updated January. 18, 2018 10:29

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「会った時は警戒しましたが、別れる時は互いに泣きましたね」

1991年、サッカーの世界ユース選手権に南北合同チームの選手として参加した高麗(コリョ)大学の徐東源(ソ・ドンウォン)監督(45)は、北朝鮮選手との出会いをこのように振り返った。1991年6月にポルトガルで開かれたサッカー世界ユース選手権で南北合同チームはベスト8に入る快挙を果たした。

2018平昌(ピョンチャン)冬季五輪アイスホッケー女子の南北合同チームの構成が進められている。サッカー世界ユース選手権のメンバーたちは、合同チームが成功するには両国選手間の異質感を減らし、戦力の弱体化を防ぐためにフォーメーションのテクニックを生かさなければならないと話した。

1991年の時は大会4ヵ月前の2月に南北が合同チーム構成に合意した。合同チーム選手もソウルと平壌(ピョンヤン)で強化試合を行った後に選抜され、合同練習を行い、ポルトガルに発った。徐氏は「1ヵ月ほど準備時間があったが、北朝鮮選手たちとの文化の違いを縮めることは容易ではなかった」と話した。衝突しそうになったこともある。徐氏は、「平壌で食事をした時、韓国の選手が金日成(キム・イルソン)主席の肖像画を指さして『金日成だ』と言った。すると北朝鮮選手がフォークを持って『ただではおかない』と怒った」と話した。北朝鮮選手たちが韓国に来た時は、五輪大路を埋めつくす車を見て「多くの宣伝用の車をどのように運んだのか」と言った。

ソウルと平壌で開かれた合同練習の時、南北選手の宿舎は分かれていた。徐氏は「選手が分かれて生活するので親しくなることは簡単ではなかった。しかし、ポルトガルで大会を行って少し余裕ができ、北朝鮮の宿舎に出入りするようになって親しくなった」と話した。そして、「両国選手間の異質感を解消するために、監視よりは気楽に話せる環境づくりが必要だ」と語った。

合同チーム8強の快挙は、南北の特徴を生かしたがゆえに可能だった。コーチとして参加した釜山(プサン)アイパーク(Kリーグ・チャレンジ)の崔晩熙(チェ・マンヒ)代表理事(62)は、「北朝鮮はオフェンス陣が強く、韓国はディフェンス陣が優れた。このため選抜メンバーを構成する時、オフェンスは北朝鮮、ディフェンスは韓国選手を中心に構成した」と話した。

徐氏は、1次リーグの最初の試合のアルゼンチン戦での勝利が南北選手が団結する契機になったと話した。当時、アルゼンチンはマウリシオ・ポチェッティーノ(現トッテナム監督)など多くのスター選手がいる強豪だった。徐氏は、「アルゼンチンが試合前のウォーミングアップにも出てこなかった。闘争心の強い北朝鮮選手たちが『アルゼンチンが我々を無視している。懲らしめよう』と言った。皆戦意を燃やし、1対0で勝つことができた」と話した。

大会を終えた南北選手たちは平壌で解団式を行った後、板門店(パンムンジョム)で別れた。徐氏は「再び会えないという思いがこみ上げて泣いた。育った環境、政治的理念は違うが、同じ民族がサッカーを通じて一つになるという使命感と責任感が大きな大会だった」と語った。

サッカーの前に日本・千葉県で開催された世界卓球選手権大会(1991年4月24日~5月5日)では、史上初めて南北合同チームが参加した。玄静和(ヒョン・ジョンファ)・李芬姫(リ・ブンヒ)組が参加した合同チームは、女子団体戦で金メダルを獲得した。

当時、南北ダブルス(男子・女子・混合)に参加した三星(サムソン)生命の劉南奎(ユ・ナムギュ)監督は、「当時初めて合同チームが組まれたので、統一に向かう国民的念願と政府の全面的な支援の中、選手の間で特に問題なく大会を行うことができた」と話した。



鄭允喆 trigger@donga.com · 金在亨 monami@donga.com