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公州艇止山遺跡、百済武寧王の殯殿ではない

公州艇止山遺跡、百済武寧王の殯殿ではない

Posted November. 21, 2017 10:07,   

Updated November. 21, 2017 10:13

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「公州艇止山(コンジュ・チョンジサン)遺跡」(史跡第474号)は、百済武寧王夫婦の殯殿(遺体を入棺した後、埋葬するまで安置するところ)ではないという主張が新たに持ち上がっている。艇止山遺跡は、1996年に国立公州博物館の発掘調査の結果、百済時代の殯殿と推定され、国家史跡に昇格した。

イ・ビョンホ国立彌勒寺址遺物展示館長が最近発表した「百済王室の祖先祭祀の変遷を巡る試論」と題した論文で、「艇止山遺跡と扶餘東南里(プヨ・ドンナムリ)寺址、青陽冠峴里(チョンヤン・グァンヒョンリ)瓦窯跡の蓮花紋瓦當は、文様、製作技法、原材料で互いに一致している」とし、「すべてが冠峴里の窯から生産された同笵品(同じ鋳型で作ったもの)だ」と明らかにした。

東南里寺址が538年の泗沘(サビ)遷都以降に建てられた寺院であることを勘案すると、艇止山遺跡内の殯殿と推定される瓦の建物が、少なくとも6世紀後半まで存続した事実がわかるという。武寧王が死去した523年、王妃の死去の526年以降も、殯殿が長い間維持されていたことになる。

これは艇止山遺跡で礎や積心(柱を上げるために下に敷く石)が発見されていないことを根拠に、殯殿は居住目的でない以上、永久的性格の建物ではないとみなしてきた従来の見解とは相反する。

これに先立って、故李南奭(イ・ナムソク)公州大学教授は、艇止山遺跡から百済末期に建てられたとみられる小型墓3基が発見された事実に注目して、殯殿説を批判した。王の殯殿が設置された神聖な空間に一般人の墓が入るのは常識に合わないと見た。イ館長は、「王宮(公山城)から艇止山に、そして再び武寧王陵に二度も運ばれたものとしては、武寧王夫妻の木棺の状態が比較的完全であることも、殯殿説を疑わせている」と語った。

それなら、艇止山遺跡の実体は何だろうか。イ館長は、眺望に有利な艇止山遺跡の立地や建物の配置が扶餘青山城(チョンサンソン)遺跡と似ていることから、軍事施設である可能性が高いと分析した。

しかし、反論も少なくない。殯殿説を主張する学者らは、中国の史書である隋書などに、高句麗と百済は3年、新羅は1年に渡って殯葬を行ったと記録された事実を強調する。隋書の高句麗条には、「人が死ぬと、屋内で殯を行って、3年が経過すると、吉日を選んで埋める」という内容が書かれている。

特に、「526年12月に西の地(酉地)で武寧王妃の葬儀を行い、529年2月12日に再び大墓に移して葬儀を行った」という武寧王陵の誌石(死者の個人情報などを記録した板石)の銘文に意味を付与する。百済熊津(ウンジン、現在の公州)時代の宮殿である公山城を基準に、誌石が指す方向(西側)に艇止山遺跡があるということである。武寧王陵の誌石には、三国時代の王陵の中で唯一埋葬された人の名前と死亡日が記録されている。

艇止山遺跡を発掘した大田(テジョン)大学のイ・ハンサン教授は、「遺構から出土された遺物を綿密に検討すると、艇止山遺跡を泗沘遷都以降と見るのは難しい」とし、「たとえ、東南里寺址の瓦と同笵品といっても、百済聖王(ソンワン)が遷都した後、先王を追慕するために熊津を訪れただけに、殯殿を一定期間維持した可能性もある」と語った。



金相雲 sukim@donga.com